第5回
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というのは川端康成の名作『雪国』冒頭の一節だが、長い坂道を上りきると、そこはやっぱり坂道だった――ということが、金沢ではよくある。
金沢は坂の多い町である。加えて前回で取り上げた「雨」も多く、人は自然と移動を車に頼ることになるのだが、一方で旧い町並みや歴史的遺産がところどころに散在しており、そうした風情の一つひとつは徒歩でなくては目にとまらない。車だと論外、一瞬で通りすぎてしまう。
歩いて初めて知る魅力の、なんと多い町であるか。
そして、歩くには疲れる坂道にしても、たとえば、その名前と由来に目を向けてみると、気分も足取りも少しは軽くなるというものだ。
松山寺(東兼六町)の塀に沿って上っていく八坂(はつさか)は、かつて付近に八つあったという坂道のうち現存する唯一のもので、木こりの通り道だったそうである。50メートルほどつづく様は市内の主な坂道のなかでも急峻な部類に入り、上りきると尻垂(しりたれ)坂に合流する。こちらはその昔、大八車を押して坂を上った人足たちの後姿から名がついたなど由来には諸説ある。いまは兼六坂と呼ばれる方が一般的のようだが。
あるいは、野町広小路の交差点から犀川大橋まではゆるやかな下り坂になっているが、これは名を瓶割(かめわり)坂といい、かの源義経一行が奥州へ逃げる途上、坂の半ばで携行していた瓶を落として割ったことに由来する。割ったのは弁慶で、いまでは想像もつかないが、当時は弁慶もよろめくほどの厳しい坂道だったのだろう。
ほか、馬坂、牛坂、嫁坂ならば、その由来もなんとなく見当がつくだろう。では、線香坂、不老坂、蛤坂なら……。金沢には、興味深い名前の坂がまだまだ数多く存在する。