1909年(明治42年)創業。川上さんは4代目にあたる。終始、真摯な面差しで語ってくれた川上さんだったが、話が3人のお子さんのことに及ぶと、途端、満面に笑みをこぼすのだった。
撮影用にオムライスを一皿、とお願いすると、『自由軒』4代目・川上廣喜さんの手から、それはあっという間に差し出された。いくらつくりなれているとはいえ、よほど手際がよくなければこうはいかない。カメラマンは慌ててセッティングの手を早めた。
そこで思い出したのは東京日本橋の洋食店『たいめいけん』の2代目主人、茂出木雅章氏の言葉である。彼はこんなことを言っている―「オムライスをおいしくつくるコツを一言でいえば、手早く。これだけのことです」。
名人の言葉を名人が実証したわけであるが、もちろん、速さには理由がある。
川上さんは言う。
「洋食の仕事の大きな部分を占めるのは、仕込みです。これさえきちんとやっておけば、料理の仕上げはそれほど手間のかかるものではありません。反対にここで手を抜けば、それはそのまま余計な手間となってふりかかってきます」
惜しむことなく仕込みに費やされた時間こそが、料理を仕上げるスピードの秘訣というわけだ。
自由軒のオムライスは今も昔も、多くのファンに親しまれる看板メニューのひとつだが、これが一風変わったオムライスである。
普通、オムライスのごはんといえばケチャップ味を連想するものだが、ここのオムライスは醤油と砂糖味。基本となっているのは、先代から伝授され、4代目が守りつづける「オムレツの実」だ。
玉ねぎと牛肉を醤油と砂糖でじっくりと煮込み、玉ねぎの甘味と肉の旨味を存分に引き出すことでできあがるオムレツの実。これをごはんと絡め、薄く焼いた卵をかぶせてラグビーボール状に形を整える。付け合わせは少々の福神漬と紅生姜だけといたってシンプル。東の廓が華やかなりし頃、芸妓たちからも愛されたという昔のスタイルそのままである。
2代目が基礎をつくり、3代目が完成させたといわれるこのオムライス。4代目から、やがて5代目へと引き継がれても、その味、そのスタイルが変わることはないだろう。
変わらないことは、いまやそれだけで価値がある。一方で、変わることを恐れていては進歩がないのも必定。川上さん自身は、3代目についている頃から、自分なりのソースやサラダドレッシングなど、新味の開拓に積極的に取り組み、結果、自由軒のメニューに新たな品目を書き加えてきた。
「創意と工夫の精神も代々受け継がれてきたものです。これは、5代目にも期待していることなんですよ」
自由軒の挑戦に仕上げはない。それは代を重ねるごとに変化する。いわば、常に仕込みの段階といえるのではないか。
筆者プロフィール
若林裕司
月刊金澤編集長
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